投稿者 放送委員 July 23, 2023
2023年7月22日 東山道プロジェクト 社会見学「阿智村 はゝき木館」~「信濃比叡広拯院」 授業レポート!
Necchu Ring東山道プロジェクトの初めての授業として、社会見学を実施しました。この東山道プロジェクトは、4月と5月に開かれたNecchu Ringの授業中のワークショップから始まったものです。 そのワークショップで皆さんから寄せられたアイディアややりたいことを見て、地域にある資源を「東山道」というキーワードで結びつけて考えてみることにしました。その結果、このプロジェクトがスタートしました。
今回は、その第一弾として、まずは東山道というものの基本をしろう!ということで規格頂きました! そこで訪れたのが、信州信濃の国、東山道の西の入口である神坂峠、園原の地。現在の阿智村園原に伺い、
- 東山道・園原ビジターセンター はゝき木館
- 神坂神社
- 帚木(ははきぎ)
- 信濃比叡広拯院 (しなのひえい こうじょういん)
を見学し、はゝき木館では、北林先生、信濃比叡広拯院では、岡田副住職様に先生になっていただき、お話を伺いました。
今回、お世話になった皆様に心から感謝申し上げます。特に、はゝき木館の北林先生、そして信濃比叡広拯院でお世話になった岡田副住職様、このプロジェクトを中心となって進めていただいた皆様、本当にありがとうございました。今回は、役員会のメンバーではなく、東山道プロジェクトを進めていただいている皆様方に企画をしていただき、それが実現した事業会になりました。綿密に予定を立てていただいたおかげで、非常にスムーズに楽しく皆で学ぶことができました。本当にありがとうございます。
一時間目:東山道と園原の歴史:はゝき木館での授業
一時限目の授業はゝき木館で、東山道と園原、神坂峠について学びました。教えてくださったのは、園原ビジターセンター、ゝき木館の北林先生。
東山道とは?
まず、東山道について学びました。東山道は、奈良時代に機内(今の奈良県、当時の国の中心地)から東北の多賀城までを最短距離でつなぐ「道」であり、行政区分の名前でもありました。
この「東山道」は、中央から地方に赴任する役人が利用する道、あるいは税を納める道、「官道」として整備されたものです。この東山道をそれより古い東山道と区別して官道東山道(または、「令製東山道」)と言ったりします。
ただし、それよりも前、古墳時代や飛鳥時代にも、「古」東山道として、この神坂峠を通る道は使われていたと言う事が、発掘調査などで分かっているそうです。この頃に、峠にいる荒ぶる神にを鎮めるために捧げられたと考えられる、石製模造品が出土しています。
当時の飯田下伊那地方は、特に「馬」の生産の地としても栄えていたと言われています。一説に寄れば、馬を育てる技術者たちは、この古東山道を通って南信州に来たとか。天竜川の河岸段丘における、沢沿いにある小さな谷「洞」の地形をうまく使うことで、軍馬を生産していたと言われています。軍馬は重要な軍事物資でした。そこを通りつなぐ道として、古くから東山道は存在していたと考えられています。
東山道の難所:神坂峠
東山道ルートは、各地の国府を経由しながら、多賀城までの最短距離を目指して設計されていました。当時は正確な地図はなかったはずですが、現在の地図にプロットすると、見事にまっすぐになっている事が分かります。
しかし、できるだけ最短距離でまっすぐに引いたルートの中には、現在でも日本の屋根と言われる日本アルプスの山脈群があります。特に木曽山脈、中央アルプスを越える必要がありました。
そのため、東山道のルートで、特に一段と曲がっている箇所が存在します。それが、現在の岐阜県と、今回の授業で訪れた「園原」の間にある堺「神坂峠」です。当初は「信濃峠」とも呼ばれていたとのこと。この峠部分は山を越える最も低い点となっており、そこを通り抜けるようなルートになっています。
ここが、1000kmにも及ぶ東山道の中で、最大の難所だったと考えられています。
神坂峠を越えた最初の里:園原
東山道の最大の難所である神坂峠。ここを岐阜県側から超えて、最初に現れる人里がが「園原」の里です。官道東山道は、整備される際に、約16キロごとに「うまや」(駅屋)を設けることが義務付けられていましたが、神坂峠付近では、その間隔が実に40キロと大幅に広がり、さらに標高差が約1000mとなっています。ここを越えるということは、当時の旅人にとっては文字通り命がけだったと考えられます。
神坂峠を越え、長野県側に降り立った旅人が最初に出会うのが、この「園原」の里です。その感動は和歌や文学などに残されており、それが受け継がれ、園原は「古典文学の里」とも言われるようになりました。
園原の歴史と文化遺産
園原の地には数度の考古学的調査が行われ、多量の食器や石製模造品などが出土しています。これらは神々への捧げ物であり、考古学的に見ても非常に重要な場所です。神坂峠遺跡群は、国の史跡に指定されています。
また、この地は源氏物語の巻名「帚木」もこれにちなみます。古代東山道の一部として知られるようになりました。
令制東山道の終焉
神坂峠を通る古代東山道は古墳時代から成立しており、五畿七道、官道東山道が成立したのは西暦700年頃と言われています。その後、長く使われてきましたが、段々と道を整備する技術の発展により、木曽路が開拓され、清内路峠、大平峠などが整備され、徐々に役割が分散していきました。 そして、西暦1585年頃に中部を襲った「天正地震」において、大規模な崖崩れなどが発生し、神坂峠を通る道が崩落したと考えられます。その頃に園原からは人が引き上げ、無人になり、神坂峠を越えるルートは使われなくなった考えられています。
その後、園原の地に再び人々が戻ってくるのは、江戸時代後期までまたなけばなりません。現在の園原の地に住む人たちは、その時代に来た人々の末裔だと言われているそうです。
はゝき木館での学び
はゝき木館は、カフェが併設されており、今回私たちが使わせていただいたセミナーなどお話が聞ける場所や、東山道に関する文献や、グッズ、キーホルダーやお土産物が買えるコーナー、そして展示室があります。
そして、目立つところには、東山道と園原地区を説明する、大きな立体模型がありました。ここで、模型を見ながら、実際にどのような道のりであったのか、また古典文学でどのように描かれていたのか、さらには近現代において園原がどのように発展してきたのかをおしえていただきました。
確かに、聳え立つ山々の中で、この「神坂峠」の部分が一番低い事が分かりやすく見て取れました。 また、当時やすりの代わりに使われており、税の代わりに納められていたと言われる「木賊」(トクサ)についても学びました。これについても能「木賊」 として古典文学に登場しているそうです。
今回は一回目の講座ということで、基本的なことを教えていただきましたが、まだまだ知りたいことが多くあります。今後、園原で開かれるさまざまなイベントに参加して、深く学んで、活動に生かしていきたいです!
1時限目のまとめ
ゝき木館での授業を通して、東山道の起源や特徴、神坂峠の難易度、そしてそれを越えて最初に迎える園原の里の歴史と文化遺産について学びました。これらは当時の人々の生活や文化を反映しており、現代に伝える重要な遺産です。この授業を通じて、古代から現代まで続く歴史と文化の一部を感じることができました。今後も学びを深め、その知識を生かしていきたいと思います。
北林先生、はゝき木館の皆様ありがとうございました!
二時間目 社会見学:神坂神社、滝見台、そして信濃比叡広拯院
二時間目は、はゝき木館を出て、この園原の地にある東山道縁の場所を見学し、そして信濃比叡広拯院を参拝し、お話を伺いました。
神坂峠と神坂神社
まず、私たちは車で神坂峠と神坂神社に向かいました。この神坂神社は、長野県側から神坂峠に向かって上がってこれる最高到達点であり、登山道の入り口でもあります。この日も登山に向かっていると思われる多くの方の車が止まっていました。
神坂神社の建物は近代になって再建されたものですが、かつてここは東山道を往き来する人々の起点だったようです。神社の中には大きな杉も見受けられ、精錬な空気が漂っていました。
帚木(ははきぎ)
次に寄ったのは滝見台。駐車場に車を停め、帚木を見に行きました。帚木は古典文学にも登場し、遠くから見ると見えますが、近づくとどの木か分からなくなる不思議な木として言われています。この木は旅人たちのランドマークとなり、東山道の難所の中で印象的な場面として伝わっています。
昭和の時代の台風で帚木は倒されてしまいました。現在はその残滓があります。特にその自然のままにしてあるために少しずつ朽ちています。しかし、その大きな幹を見ることで昔の姿を知ることができます。そして現在ではそのひこばえが育っていました。
滝見台の展望台
続いて、滝見台の展望台に足を運びました。その昔、この場所は、神坂峠から下ってきたときに最初に目にする開けた場所だと言われています。旅人が、厳しい神坂峠を越えて降りてきたところからこの風景を見たとき、ようやく人の里に下りてきたと思ったのか、あるいは、まだ越えなければいけない山がたくさん見えまだまだこれからと思ったのか、古代の人の気持ちに思いを馳せながら、美しい風景を眺めました。
展望台から見ると、深く川が通っていることがわかります。現代では河原は比較的平らであり、農業にも向いて工業団地などにもなっていますが、これは水利技術があってこそです。このような谷部分は水が多く、少しの雨で地形が変わってしまうため、当時の技術では道として使うのは難しかったことがわかります。そのため、東山道の道は川沿いではなく、尾根道を通っていく道になっていると言われています。そしてそれは、当時、峠としては比較的緩やかだったものの、谷道で荒れやすく安定しなかった木曽ではなく、伊那谷を抜けた理由であったと考えられています。
展望台には、皿投げの占いができると言われてみます。私も試してみました。皿がまっすぐ下に舞い降りたため、これは万事順調を現すとされています。あたるかな?
信濃比叡広拯院
最後に、信濃比叡広拯院というお寺にお邪魔しました。ここは現在の本堂が平成の時代に建てらられた建物です。天台宗の比叡山の名前をとり「信濃比叡」を名乗ることを許されたお寺です。ここでは、岡田副住職様からお話をしていただきました。
ここには、伝教大師最澄さんが、この神坂峠を越える旅人のために作ったと言われる布施屋があったと言われています。この布施屋とは、旅人のための無料宿泊所。岐阜県側には廣済院、長野県側に廣拯院がありました。
記録がある限り、日本で最初期の公共福祉施設であると言われています。天台宗の創始者、最澄さんがこの東山道を通り都から東北の方に教えを広める時に神坂峠の困難さを知り、その度の帰りに、人々が休める場所を作ったと伝えられています。
当時の仏教は、宗教であると同時に大陸から渡ってきた最先端の考え方や技術を伝えるものであったはずです。そう考えると、ここが日本と言う国の形が出来ていく時に、重要な交通路出会ったんだろうなと思いました。
そのような歴史のある地ですが、長い間何もありませんでした。それが、戦後になってから、改めてここに広拯院を再興するという機運が高まり、地元の寺院やたくさんの人々の力によって現代に再建されたお寺だそうです。
副住職様は、ちょっとずつジョークも交えながら、この辺りの歴史を分かりやすく伝えてくださいました。ありがとうございました!
(※本堂内撮影禁止ですが、仏様を写さない条件で特別に許可をいただき撮影いたしました)
まとめ
今回は、東山道の基本について学びました。そのためにはゝき木館で東山道の基本をおしえていただき、どこを通って、当時どのような役割を持っていたか、どのように使われてきたかについておしえていただきました。また、仏教の観点から岡田副住職様にお話をいただきました。この会話を通じて、私自身、東山道というものがどういったものだったか、その基本的な部分を理解できたと感じています。
ただ、これを単なる知識として楽しむだけではなく、次の学びへと活かし、新たな活動に繋げていきたいと考えています。
東山道はどこを通っていたか?
東山道が、今回伺った園原、神坂峠をとっていたのは間違いありません。ですが、その後は明確にどこを通っていたのかは分かっていません。それは何故かと言うと、一口に東山道と言っても、古墳時代から戦国時代にまで、その歴史は約千年。この間には、災害や崖崩れなどで道がつながらなくなったこともあるでしょう。また、技術の発展によって馬を使うようになったなど、さまざまな事情があったと推察できます。そのたびに、道は新たに整備され、入れ替わったでしょう。 その間には、時代によって道やルートも変わったでしょうし、伊那谷の中をどのように通っていたかは諸説ある様です。私たちが拠点を置く高森町の中でも、3つのルートがあったのではと言われています。
そう考えると、現代における東山道は、中央自動車道ではないかと思わせる部分もあります。中央自動車道は名古屋を起点とし、名古屋から神戸に向かう名神自動車道も実は「中央自動車道西宮線」というのが正式な名称なのです。大まかには東山道のルートと非常によく似ている・・・と言えなくもありません。。そして、長野自動車道や東北自動車道までつながっている点も、東山道との共通点と言えるでしょう。
そして、はゝき木館でお話をお伺いすると、この中央道を建設するときに行われた大規模な発掘調査を通して多くの事が明らかになったのだそうです。
そうやって考えていくと、東山道とは、かつてあった古代の道ではなく、姿を変えていまでも多くの人や物資を運び、経済を動かし、社会文化を広めている生きた道なのではないかと、未来にも繋がっていると感じました。
今回、東山道の学びを通じて、古代から現代まで、その形を変えながらも人々の生活と深く結びついてきた道の存在を改めて認識することができました。 そして、なによりすごく楽しかったです。この学びが、次の一歩につなげていきたいと思います!
お世話になった皆様、企画していただいた皆様、本当にありがとうございました。